
ピンク・レディの名付け親、都倉俊一さんについて調べました。
ピンク・レディーという名前の由来
ピンク・レディーという名前は、作曲家・都倉俊一さんがつけたものです。都倉さんは、1970年代後半に人気を博した女性デュオの曲を多く手がけましたが、最初のレコード発売前に、彼女たちのマネジャーから「名前が決まらない」と相談されたそうです。
レコード会社がつくった候補のリストを見た都倉さんは、「白い風船」とか「ミスター・ロンリー」とか、どれも古臭くてダサいと感じました。そこで、彼は自分の好きなカクテルの名前を思いつきました。それが「ピンク・レディー」でした。
「ピンク・レディー」は、ジンとグレナデンシロップを混ぜたカクテルで、ピンク色をしています。都倉さんは、このカクテルが洗練されていて、女性らしくて、かわいらしいと思ったそうです。また、英語の響きも良かったと言います1。
都倉さんは、「ピンク・レディー」以外にも、「マンハッタン」とか「マルガリータ」とか、他のカクテルの名前も考えたそうですが、最終的に「ピンク・レディー」に決めました。彼は、「ピンク・レディー」が日本人にも馴染みやすくて、覚えやすいと思ったからだと語っています。
都倉俊一の音楽マインド
都倉俊一さんは、著名な作曲家であり、現在は文化庁長官を務めています。彼は子どものころから音楽に親しみ、4歳からバイオリンを始めました。父親が外交官だったため、ドイツやアメリカなどで暮らしました。その経験から、英語やドイツ語やフランス語を話せるようになりました。
都倉さんは、ドイツにいたときにカラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を見て感動しました。彼はカラヤンの音楽に影響を受けたと言います。また、ビートルズやローリング・ストーンズなどのロックバンドも好きでした。彼は自分の音楽マインドがドイツで育ったと語っています。
都倉さんは日本に帰国後、学習院大学に入学しましたが、音楽の道に進むことを決意しました。
都倉俊一の音楽活動
都倉俊一さんは、1970年代から作曲活動を始め、山口百恵やピンク・レディーなどのヒット曲を多く生み出しました。日本の主要な音楽賞のほとんどを受賞し、レコード売上枚数は6千万枚を超えると言われています。また、映画音楽やテレビ音楽も手がけ、『夢一族』『源氏物語』『黒猫』などの作品に参加しました。
1980年代からは、拠点をロサンゼルスに移し、シュン・トクラの名義で作曲やプロデュース活動を展開しました。レイフ・ギャレットやシルヴィー・バルタンなどの海外アーティストにも曲を提供しました。また、ロンドンにも居を構え、本格的なミュージカル作曲や舞台制作にも取り組みました。自身が作曲したオリジナル・ミュージカル『Out Of The Blue』は、1994年にロンドンのシャフツベリー劇場で開幕しました。
2000年代以降も、音楽活動の幅を広げています。宝塚歌劇団の『風と共に去りぬ』やNHKドラマ10の『ガラスの家』などの作曲を手がけたほか、子供向けのミュージカルアニメーション番組『フレンドリー・アベニュー』の制作総指揮も務めました1。また、イスラエルやイギリスなどの海外での音楽交流事業にも積極的に参加しました。
都倉俊一の文化庁長官就任
都倉俊一さんは、2021年4月1日から第23代文化庁長官に就任しました。これは日本人の作曲家として初めてのことです。都倉さんは、就任にあたって「文化芸術は人々の心を豊かにするだけでなく、社会経済的な価値も持っています。文化芸術分野が新型コロナウイルス感染症の影響で大きな打撃を受けている中で、文化庁長官として責任ある役割を果たしたい」と述べました。
都倉さんは、日本音楽著作権協会(JASRAC)会長として著作権意識の啓発活動に取り組んだ経験があります。また、国立競技場将来構想有識者会議委員や国際音楽創作者評議会執行委員などの要職も歴任しています。
まとめ
- ピンク・レディーという名前は、作曲家・都倉俊一さんがカクテルの名前から思いついたものです。
- 都倉俊一さんは、子どものころから音楽に親しみ、ドイツやアメリカなどで暮らしました。
- 都倉俊一さんは、1970年代から作曲活動を始め、山口百恵やピンク・レディーなどのヒット曲を多く生み出しました。
- 都倉俊一さんは、1980年代から海外で作曲やプロデュース活動を展開し、ミュージカルや映画音楽も手がけました。
- 都倉俊一さんは、2021年4月に文化庁長官に就任しました。これは日本人の作曲家として初めてのことです。
都倉俊一さんは、日本の音楽界に多大な貢献をしただけでなく、国際的な視野を持って活躍された方ですね。ピンク・レディーという名前がカクテルから来たというエピソードは、彼の洗練されたセンスを感じさせます。文化庁長官としても、日本の文化芸術を発展させるために尽力されることでしょう。